メタ思考を正解に近づけていく過程を晒すというのも、それはそれで面白いのかもしれない。
「言葉を便宜的に使う」と宣言して書いてきたから、これまでも間違いとも言い切れないのかもしれないけど、それでもすごい誤魔化しもあるね。
あれからもだいぶ、メタ探求が進んだんですよ。セラピーをかなり時短しながら正確さを増す可能性があるほどに。
まぁしかしこれも、くくく、人間がどれだけ努力したって、どんな天才と呼ばれることがあったとしても、世界の真実の方が圧倒的に正しい。
あのアインシュタインのアイデアだって、「宇宙が膨張しているなんてそんなバカな」「確率的にしか存在しない量子なんてそんなバカな」と、世界の真実からすれば間違いだらけだ。
真実自身が真実自身を叙述することが知性であるならば、知性は個人には帰属せず、世界全体に帰属する。
いくら天才が頭をひねったからといって「考えたことが真実になる」のではなく、考えに囚われず真実を叙述できる時、「その真実こそが知性」なのである。
「頭が良い」とか「頭が悪い」とか、そういう一般化したアイデアによって人間は人間を苦しめるけれども、実は「考え(アイデアやイメージ)」と「思考(順序立てて積み上げる)」と「知性(真実からの叙述)」は別々のものではないか。
「頭が悪い」という「考え」によって、即「自分は劣っている」「自分はダメだ」と「思考」するのは、「知性」からすれば間違っている。
ここで、間違った「考え」を持つな、間違った「思考」をするな、と言っているわけではない。
あのアインシュタインだって、そういう意味では間違った「考え」を持ったし、間違った「思考」をした。
つまり人間にとってそういう間違いを犯さないことは無理である。
そもそも、「考え」や「思考」と「知性」は別の要素で、「考え」や「思考」は自分の中で起こるけど「知性」は世界の側にある。
世界に帰属する「知性」を中心にジャッジすれば、自分は世界に否定されていると感じる「自分否定」、そんな私を私が否定するアイデアの「自己否定」になる。
否定すれば抑圧し、その苦しみをずっと持ち続けることになる。
その否定や抑圧を解除し、苦しみから解放されるためには、まず、「考え」は「考え」のまま、「思考」は「思考」のまま、見てみる必要がある。
例えば「自分の考えや思いを述べるのが苦手で、事務的なことや、生活に関係のない宇宙の構造みたいな難しい話しかしないキャラクターの自分」がいたとする。
その「キャラクターの自分」は、なぜそれが苦手で、何に苦しみ、何に困っているのか?
そして聞く「そのキャラクターのあなたは、どんな脚本を生きているのですか?」
例えばこう答える「劣っているダメな自分という脚本を生きています」
さらに聞く「その脚本は何のために書かれているのですか?」
例えばこう答える「私は頭が悪いという考えを避けるためです」
さらに聞く「その考えは、いつどうして作ったのですか?」
そこまでいけば、その考えにリアリティーを与えている感情に寄り添って解放すればいい。
どんな感情自身も感じられていいし、どんな考え自身も持たれていいし、どんな思考自身もされていい。宇宙の真実の知性とどちらの方が大切かと比べられるものではない。
誰がどんな考えを持ったところで、誰がどんな思考をしたところで、宇宙の真実の知性には全く影響はないのだ。
この先はまた、さらに理屈をこねます。心理オタクの方のみお付き合い願います。
さて「自身」という言葉を前回まで「肉体」という意味で便宜的に使ってきたが、今回は「気づかれている自身が気づいているという主客が二つでない非二元の意識」を「自身」とする。
「私は自身である」の意味が通るのは、私は私に気づいているし、私は私に気づかれている同時であるからである。
その非二元は自由に解放される道である。
考え自身を否定せずに気づかれるならば自由である。
感情自身を否定せずに気づかれるならば自由である。
思考自身を否定せずに気づかれるならば自由である。
といった具合である。
さて、「自身」という言葉の便宜的使用だけでなく、自己自我自分として説明してきた中身、自身自然自律の配置や言葉や概念、いろいろ一新する。
「自分」とは「身体の自分」と、「精神の自分」がある。
「身体の自分」は外から「実在する肩書のあるキャラクターの私」として観測されることができる。
「キャラクター」には「印象を与える姿や振舞いやセリフ」と「何らかの正解に沿おうとし、いくらかの正しさを持つ知性」がある。
姿や振舞いやセリフや知性が一貫性をもって展開することで生きたキャラクターとなる。
身体に損傷が見えなくて、姿はあっても、振舞いやセリフや知性が無ければ寝ているか死んでいるか。
だが、身体が完全に損傷し死亡して、姿がないのに振舞いやセリフや知性があるという逆は無い。
身体の危機は「キャラクターの私」にとって根本的な危機である。
その身体の上に展開される「姿や振舞いやセリフ」と「知性」。
「姿や振舞いやセリフ」は「人間関係の中で印象を与える自己像」である。鏡を見ているのでなければ普通、主観的には姿は感じられず、振舞い喋っている感覚だけがある。
どんなつもりで振舞い言葉を発しても「ありがたい」か「迷惑」か、「仏のような姿に見える」か「悪魔のような姿に見える」かは、相手の側が感じることである。
実在の自己像は安全な人間関係の中で安全に生じて伝わっている。
「知性」は「法則やルールのある世界で受け入れるかジャッジする自我」である。思考を客観視しているのでなければ普通、主観的には思い込みは気づけず、正論を握っている感覚だけがある。
どんな理屈で仮定し検証しても「それで合ってる」か「間違ってる」か、「思い込みなく見れてる」か「思い込みだらけ」かは、自我が決めるのではなく現実世界の真実が照らすことである。
知性の自我は現実世界に安定した正解がある中で安定して生じて流れている。
「精神の自分」は心の世界の中にいる「架空の脚本に書かれた私」と仮定して解き進めることができる。
「架空の脚本に書かれた私」には「与えられた印象からのイメージと意味と感覚」と「何らかの感情に沿おうとし、いくらかの明晰な感情の答えを持つ情緒」がある。
過去のことでも未来のことでもイメージと意味と感覚と情緒を想うことで、リアルにニンマリしたり、まだ起こってないことに心配したりできる。
「架空の脚本に書かれた私」は過去を想い未来を想う、言語に限らない思考であり、信念体系である。
過去を想い未来を想っても、感情も感覚も起こらないとすれば、既に興味がなくなっているか。
感覚のマヒや重度のうつなら過去や未来にではなく「今」味とかの感覚がなく、「架空の脚本に書かれた私」をよっぽど抑圧していて、他の感情感覚が味わえないほど苦しい。
架空をリアルに感じ苦しむとき、救いを求めたり、自死を願ったりさえする。
過去も未来も想わないことで苦しい感情も感覚も起こさない今ここ瞑想は、精神活動を抑えている間、救いの隙間を作る。
しかし「架空の脚本」が変わっていなければ、精神活動を再開すれば元の苦しみがある。
「架空の脚本」の中身を知り、苦しみ続ける必要性を無くすことで、精神活動している間もハッピーになる。
「架空の脚本に書かれた私」にある「イメージと意味と感覚」と「情緒」。
「イメージと意味と感覚」は「欲求関係で受けた印象の他者像と世界像、そして自己像、そして神仏像」である。パブロフの犬で言う「ベルの音」と「エサがもらえる」を分けなければ、刷り込みに気づけず、「ベルの音」に対して「ヨダレ」というどうしても起こる肉体反応だけがある。
どんな記号に何を期待して肉体反応しても「報われる」か「報われない」かは相手次第で、その時、他者・世界・自己の姿がどう見え感じたか、肉体感覚が自動でストックする。
自己の肉体感覚は安全な欲求関係の中で安全に生じて受け取っている。
「情緒」は「理屈抜きで嬉しいかどうか感じ取る自我」である。リアリティーを事実と解釈に分けなければ普通、本当はそうでない無い事があっても気づけず、全てリアルという感覚だけがある。
どんなリアルが訪れても「嬉しい」か「嬉しくない」か、「愛されてると感じる」か「拒絶されてると感じる」かは、自我が決めるのではなく心の世界の真実が照らすことである。
情緒の自我は心の世界に安定した正解がある中で安定して生じて流れている。
実在の他者が実在の世界に登場するように、像は実際に登場するのは、心の世界に登場する。
心の世界というものがあるのだ。心の世界とは、心象の世界である。今ここの現実でない、心に浮かぶ全ての世界である。
寝ている時に見る夢の世界、臨死体験で見る世界、絵を描いたとき無意識に浮かびだす世界、過去を思い出す時、未来を思い出す時、ここでない場所を思い出す時、ストーリーや背景を想像する時、心に思い浮かぶ世界等々である。
私たちは、寝ている時に見たものは、夢に決まっていると思うけれども、起きている時に思い浮かべたものは、全て現実と区別できているかというと怪しい。
それどころか、精神がある以上、かすかにでも情緒がある以上、少なくともその瞬間には、無意識下には心の世界が広がっている。
突き動かされる情動や強迫症や依存症や不安症や、そういった時、心の世界では何かが起きているのだ。
心の世界で起きていることが原因なら、考え方を変えればいいというような、心は自分の思い通りになるものという漠然とした考えがあるかも知れないが、心の世界に登場する彼ら、それは自己像でさえも、向き合ってみれば分かるが、一筋縄ではこちらの思い通りにならない。
まるっきり、それぞれ自身の思いを持っているように振る舞う。
深い心理セラピーによって彼らと対話し、心の問題を解決することによって、心に平和が訪れる。
そうではない方法で、心の世界に現れた像を無かったことにしても、別の問題が起きる。
心の世界に像が現れている時は意味を拾って感情を起こし、像が現れず記憶として刻まれている時には、肉体反応し肉体感覚になり肉体変化する。
つまり、肉体が不調になる、心身が病気になる。
そうならないための心理セラピーだ。
自由な知性で真理を楽しみ、自由な情緒で花鳥風月を味わう。
そうあるための心理セラピーなのだ。
さて、自我は情緒をコントロールし知識を正しく扱おうとする。
自己は欲求の肉体反応を克服し他者に善く見えるよう振舞おうとする。
自分は思考の過去を克服し未来をコントロールし肉体の今に足りないものを得ようとする。
苦しい時、そういったどこか不自然さがある。
「あなたは何を克服するための脚本を生きているのですか?」
「あなたは何をコントロールするための脚本を生きているのですか?」
きっと本当は、そんな不自然なことをする必要はないのだ。
もちろん本人は本気で悩んでいるだろう。
でも自然でいいのだ。
ありのままの自然な情緒自身、知識自身、欲求自身、振舞い自身、思考自身、身体自身。
迎えに行って自身を自由に解き放ち味わうのだ。
それらは喜びである。