これは、仏法は正しく学ばなきゃいけないとか
そういったことを言うものではない。
教えがあってそこに自分を
当て込んでいくのではなく
自分というものを観察し知っていく上で
比較検討していくものである。
知識だけ持ってきて
あれが正しいこれが正しいと言っても
そこに自己の実体が伴わなければ
いかにして、どれが正しいなどと証明されるであろうか?
さてさて、貪瞋痴(とん・じん・ち)の三毒というものがあります。
むさぼり・いかり・おろかの煩悩です。
何も反応しなければ
平穏にただ過ぎ去っていくものに
私たちは煩悩があり反応して
平穏にいられなくなる。
仏教と一口に言っても
これをどうするかという考え方は
様々に分かれています。
煩悩や迷いを消し去りなさい、とか
向上のために煩悩を力に変換して活用しなさい、とか
両極がありえます。
どちらが正解かという事を
ここでは記しません。
しかし、平穏とは何か?
なぜ平穏でない状態が起こるのか?
何が起きているのか気づくことによって
その解決の糸口につながっていきます。
さて人並みの平穏を
余計なことに煩わされず
見たものをありのまま判断できる状態としましょう。
何かに囚われきって激しい情動に駆られ
一時も平穏にとどまっていられない状態。
そういう怒りなどの状態を地獄と呼ぶ宗派もあります。
欠如感や不足感に苛まれ羨み
自分に無いと思っているものを見るたび平穏でいられない状態。
そういう貪りなどの状態を餓鬼と呼ぶ宗派もあります。
誰かに対面した時、正しいか間違っているかではなく
上下関係の上か下か、損か得かなどによって
ありのままの判断が見えなくなるような状態。
そういう愚かなどの状態を畜生と呼ぶ宗派もあります。
例えば、機嫌の悪いジャイアンが
当たり散らす先を探してうろうろしています。
地獄を呼び起こす怒りの状態です。
買ってもらったラジコンを自慢するスネ夫に
悔しがってドラえもんに道具をねだるのび太。
貪りを呼び起こす餓鬼の状態です。
やってきたジャイアンにラジコンを取り上げられ
これ以上被害が大きくならないようにヘコヘコするスネ夫。
愚かに落ち行く畜生の状態です。
気づかなければ、同じような事が
何度でも起きていきます。
気づかなければ、
どうしてこのような状態が起こっているのかという事に
立ち入れないからです。
例えば認知行動療法においては
気づいた上で、
自分にどのような思考の癖があるのかを見ます。
そして他の考え方もあり得ることに気づいていき
その気づきをもって行動を改善していきます。
非二元をベースとしたセッションの問いかけでは
その場で自然な認知のシフトが起こる手順を取ります。
何が起こって、そのどこに反応したからその状態が起こったか?
その反応が起こるのはなぜ?どうして?
本質に近づくほど、より大きなシフトが起こります。
セッションでは一口に枠に当てはめて捉えられないような
あなたのオリジナルの生命の構造を見ていきます。
貪瞋痴の三毒の煩悩のような
ネガティブな感情というものを入り口とすることで
つまりそこには、自分で見たくなかったものが
隠れていることを意味しているので
そこに隠されていた大きなものに気づくことによって
大きなシフトが自然に起きるということです。
凡夫である限り全ての人には
煩悩があるとも言います。
だからこれは、特別な人にだけ受けてもらいたいのではなく
全ての人に一度は受けて頂きたいセッションなのです。