前々回と前回で業と煩悩について
触れてきました。
仏法においてしばしばセットで語られるものに
煩悩・業・苦というのがあります。
行為の因果の業
引き起こす心・感情の煩悩
そして受ける報いの苦です。
苦に疑問を持つことが
そもそもの探求の始まりになります。
もちろん個々においての
今実感しているものから見ていけばよいのですが
仏法では、本当に誰にも
どうすることも出来ないような苦に
行き当たったところから始まっています。
人はなぜ生まれながらに身分の違いがあるのか?
なぜ障害をもって生まれる人がいるのか?
人はどこから来てどこへ行くのか?
どんな答えが用意されたとして
どれだけの救いとなるのでしょう?
仏教学者の中村元氏は「苦」を
「思いのままにならない」と訳しました。
どんなに思っても誰も逃れられない
代表的な四つを生老病死の四苦と言います。
例えば秦の始皇帝が不老不死になりたいという心の煩悩を
心に思い(意の業)口にし(口の業)行動に移す(身の業)
思いのままにならずかえって死期を早め苦の報いを受ける。
もがけばもがくほど深みに落ちていく
アリ地獄のようです。
生老病死の四苦に加え
愛別離苦 … 愛する者と別離すること
怨憎会苦 … 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦 … 求める物が得られないこと
五蘊盛苦 … 五蘊が思うがままにならないこと
( Wikipediaより)
を合わせて八苦と言います。
私たちは知らない地で知らない人が
自分には及ばない無関係なことで死ぬのを
逐一には気に留めていられませんし
一方で自分や自分の愛する人に
被害をもたらすものに出会うのを嫌がります。
平穏とは気にしなければならないことが少ない状態であり
今ここでない遠い過去や未来のように
思ったところで今どうにもならないことを気にしていれば
今ここに起こっているわけではないことで平穏が崩れます。
では、気にしなければいいのかというと
もちろん気にしない状態というのを
一次的に作り出す方法というのはあります。
その感覚を知っておくことは役にも立ちます。
ですが、それ即ち原因が消えることではないです。
原因となる煩悩に蓋をして塞き止めても
カルマの因果の流れはいつか限界を迎え決壊します。
塞き止めるのだって、なぜ塞き止める必要があるのか?
例えば恐怖の対象があって、なぜそれが、
自分や愛する人に被害をもたらすという事に現実味を感じているか?
秦の始皇帝は不老不死にならなければ、
どんなまずいことが起こると感じているのか?
その源へと辿っていくのです。
源が遠ければ遠いほど
流れは長く悠然としたものになるという仏法の教えもあります。
この過程は、とても個人的な
限定的な経験や記憶を辿っていくようでいて
それを発見し受容することは
全体とのつながりを取り戻すことでもあります。
仏という存在にとっては
全ての人の一切の苦は、私の苦であるという存在だとも言います。
あるがままを見ていくということは
それだけの大きな存在に迎え入れられていくことだとも
言えるのではないでしょうか。