すりはんどくの気づき

お釈迦様の弟子の一人に
「すりはんどく」という人がいます。

何を教えても
聞いた話は右から左

とっても物覚えが悪い。

自分の名前すら忘れるっていうんだから
みんな呆れてしまうってもんです。

ある日お釈迦様が
純粋に求めることだけは立派なすりはんどくに

これだけを毎日やりなさいという
簡単な繰り返し言う言葉と

掃除する場所を与えます。

物覚えの悪いすりはんどくですが
それだけは覚えて毎日続けました。

それをしている中である日
ハッと深い気づきを得ます。

それは他の
どんなに教えを正確にたくさん覚えている弟子よりも
深い気づきだったのです。

このお話から、何を読み解くべきでしょうか?

「文句を言う暇があるなら
言われたことを疑わず実行しろ」

というような事でしょうか?

すりはんどく以外は勉強ばかりして
行動する人がいなかった?

いいえ、お釈迦様の教えをたくさん覚え
たくさん実行した人は大勢いたのです。

多くの弟子が、戒律を覚え実行していたのです。

では「難しいことを理解しようとする必要はない」

というような事でしょうか?

どうでしょうか?

すりはんどくは理解しようとしなかったのではなく
教えを求め理解したかったけど出来なかったのです。

そのことですりはんどくは
自分は出来の悪いダメな弟子だと思っていました。

すりはんどくは物覚えが悪いがために
覚えていれば囚われがちな概念が少なかった。

「私はすりはんどくです」にすら
囚われていなかった。

だけど
「自分は出来の悪いダメな弟子だ」
という思いに囚われていました。

お釈迦様はそれを見通して
その思いを祓う行を与えたんです。

では「何ものにも固執しない瞬間
大きな気づきが得られる」

というような事でしょうか?

言葉にすれば短い言葉です。

その言葉や概念自体は気づきそのものではないです。

掃除に集中して言葉を介して大きな気づきを得たのは
「止」と訳されるサマタ瞑想による禅定の気づきです。

今ここでは
「観」と訳されるヴィパッサナー瞑想に広げましょう。

自分の心の動きに注意を払う必要があります。

「何ものにも自分の名前やあらゆる定義にすら固執しない瞬間
大きな気づきが得られる」

という言葉に対して、自分の中でどのような心が動くか?

そうは言っても、譲れない思いや
大切にこだわりたい教えがある?

自分が何に囚われているかなんて
自分では分からない?

自分はダメな人間だから
そんな難しいことは出来そうにない?

どうでしょう?
どんな心が動くでしょうか?

それは人それぞれだと思います。

では実際に
「何ものにも自分の名前やあらゆる定義にすら固執しない」
をやってみて下さい。

自分に関するあらゆる定義を信じない

自分の名前、自分の性別、自分の肩書、自分の年齢
与えられただけ、分けられただけ、振る舞っているだけ、計っているだけ

そういう全部を手放してみる。

それが出来ましたら先ほどの
心が動き思いが起こっている状態と比べて下さい。

その動いた心は
「何ものにも自分の名前やあらゆる定義にすら固執しない瞬間
大きな気づきが得られる」

という言葉に、何を見ていたのでしょうか?

お釈迦様がすりはんどくに教えた言葉は
「塵を除く、垢を除く」です。

私たちは何に気づくべきでしょうか?