自分の持っているエネルギーイメージ
それは信念体系となり
世界に解釈をつけ反応を起こし
信念体系が強力なほど
現実は思うままにならないという
苦しみを得ることになる。
仏様の教えには
同じガンジス川の流れを見ても
地獄の民にはそれは業火と見えるし
天界の民にはそれは甘露と見える
というような話があります。
川が流れるというのは世界の変化
世界の変化に触れたとき
私の身に流れるエネルギーは感情です。
同じコロナ禍という変化を見ても
不満が渦巻いてイライラする人もあれば
再生のありがたさに愛を感じる人もいる。
「思いのままに永遠に変化しない現実を
完璧に作り上げる」というのは不可能。
変化する側のものを
つかみ続けようとすることを執着という。
動く世界も身も
流れるエネルギーも感情も
作られた信念も反応する言葉も
変化する気づかれる側であって
「気づいている私」に
ただ見つめられるということが可能なものだ。
気づかれるものでないということに気づいているとき
気づいている私には一体、何らかの要素があるだろうか?
苦しむべき「状態」も
つかむべき「対象」も何もない。
そのようなものが
生れ出ることはあるか?生れ出ることはない。
そのようなものが
死に消えることはあるか?死に消えることはない。
それは「魂」といってイメージするような
状態でも対象でもない。
ただ気づいていることに気づいている。
仏のガンジス川の話は法華経の
「自我偈」という「詩」の中で美しく表現されている。
「自我偈」という「詩」は
「自我得仏来」で始まり「即成就仏身」で終わる。
自で始まり身で終わる、自身なのです。
世界の変化と切り離せない
エネルギーの流れ、感情によって
私たちは世界を認識している。
地獄の苦しみも、刹那の喜びも
感情も思いも、自身に起こっている表現を
否定せずありのままに寄り添っていく
感情は世界の変化によって自ずから自然に起こる表現
思いとは中心を持つことによって物語を楽しむ我の表現
それらをありのまま受容解放することによって
ただ悟りだけの仏ではなく
自も我も得ている仏が来たという
現実から切り離された「無常・苦・無我」の仏から
自身の上に開く「常楽我浄」の仏への昇華がある。
感情の表現、思いの表現にブレーキをかける必要のない
「常楽我浄」の仏の在り方、
それは行き詰まりの無い無上道である。
思いや感情の表現が即ありのまま成される
ということに就くとき
その身は「常楽我浄」の仏の表現となっている。
私がセラピーでするゼロ視点は
常楽我浄視点でもある。
深いところでこそ安定し
不思議な「常楽我浄」への変化が起こります。