Cocco-Raining

Coccoリスペクト

当時のリスペクト度で言えば
南条あやよりも歌手のCoccoの方が
大きかったんじゃないかな。

Coccoの『Raining』を
知らない人は一度聴いてほしい。

Cocco自身が歌ったのは
それは個人的なことだったんだろうけど

リストカットをして血を流して落ち着くなんて
私はおかしいんじゃないだろうか?

こんなの、誰にも分かってもらえない。

そんなリストカッターたちに
「そう、これだよ」
「私だけじゃなかった」

という共感を呼んだのではないだろうか?

自傷というものは

何か抑えられない衝動の中
痛みや温かさを感じることで

すーっと落ち着いていくのであり

知らない人からすれば手首を切るなんて
自殺未遂のように思うかもしれないが

あるいは実際、彼ら彼女らはしばしば
「死にたい」なんて口にしているかもしれないが

その行為は、
ここにいて生きていられるための行為だったりする。

そしてそれは
依存してエスカレートする傾向もある。

当時、ネットが一気に拡大し始めた時期でもあった。

そんな中で、同じくCoccoに共感したリストカッターたちに
連帯感が生まれていったのも無理からぬことだ。

そもそもなぜ自傷をするのだろう?

『Raining』の歌の始まりは
赤い髪を自分で切るところから始まる。

思考としては、何度もその理由を探しに
その時を思い出すのだろうけれど

どうしても見落とされたり否定されているものがあると
本人でさえ理由なんて見つけ出せない。

大小の違いはあれ
誰にでもあることでもある。

だからこそ世間の人はそんな自分を投影し
ネットの中のリストカッターたちが寄り集まり
もしもそこに自殺のカウントダウンでもあろうものなら
それに激しく反応した。

匿名のネット社会の中で
自傷に走るなんて、死のうとするなんて
弱い人間のすることだなんて言って
力の限りなじりこき下ろすのである。

しかし、そのようなことをするのは
それこそが「自分の弱さを見ること」を受け入れられない
という反応でしかなかったりする。

酷い言われようの中でも
自傷や希死念慮のある彼ら彼女らは、
自分の今の思いや
どうしても重くのしかかっている過去を
赤裸々に吐露していた。

彼ら彼女らやCoccoにしても

終わったことに何度も立ち返っているのは
それは弱さではない。

今、辛くて苦しくて
自傷をすることで何とか生きている。

自傷を取り上げられたら生きていけないかもしれない。

というのが彼ら彼女らにとっては
何よりもリアルに感じられている。

だけどいつも思い起こされる

まだ理由は分からないけれど
始まりのあの時に
きっとヒントがあるはずだ。

そんな時にまで、強さの形なんて
一つじゃなきゃいけないものじゃないだろう。

状況の数だけ、人の数だけ
それに見合った強さがあってもいいんじゃないか?

始まりの理由は一人ひとり違う。

だからそれは自分で見つけなきゃいけない。

Coccoさんにとって、赤い髪ってどんな意味があるの?

そんなルーツを、本当に全部理解して
受容できた時

あぁ、そうだったんだって
スッキリするかもしれない。

ボクはそのお手伝いをするのだ。

同じようにリストカットする人たちも
それぞれ違った理由を持っているし

あの匿名で批判していた人たちも
そうするしかなかった理由がそれぞれにあるだろう。

いつからか日本の社会全体に
なんだかモヤモヤしてむしゃくしゃするような空気が
あるのかもしれない。

そういうことに敏感に
それを感じてそこにいて
押しつぶれそうになりながらでも
懸命にメッセージを発信していた彼ら彼女らを

ボクは弱いとは思わない。