南条あやって知ってる人どれぐらいいるかなぁ?
もう15年以上前になる。
当時、たくさんの
いわゆるメンヘラ―と言われる人たちが
それぞれHPを作って赤裸々に色々と書いていた。
中には「一緒に死にましょう」的なものがあったりして
社会的に問題になって
そういう表現は、その頃からどんどん規制されていった。
でも、ボクがそういう世界を初めて知った時
そこにあったものは
「私はしんどくて死にたいけれど
他の人には生きてほしいんだ」という
救われるようなやさしさのある所だった。
どちらかというとメンタルヘルスは
「親しみ近づくべきでないもの」として
ひとまとめにされてネット社会からさえ
コアな部分は姿を潜ませていったわけであるが
彼ら彼女らが訴えたものは
未だボクの中で生きている。
「死にたいなんて言うな、なんて
じゃあ黙って死ねばいいんですか?」
誰にも受け止めてもらえない思いを
せめて、なんとか表現しようとしていた。
南条あやというのは
そういう分野が広がるきっかけとなり
社会が受け入れようと試みるに至った
さきがけの一人かもしれない。
ボクがその名前を知った時にはすでに
本の中にしかいない人であった。
後に本になった彼女の文章は
最初、ネットに公開されていたものであったらしい。
その文章には魅力があった。
やっていることは、
どんな薬をどれだけ処方されて
今日はどれだけ飲みましたとか
リストカットやオーバードーズをどれぐらいしましたとか
冷静に考えれば健康的ではないことを
どこか微笑ましさを感じるようにさえ表現していた。
彼女の場合、自傷の内容が内容だったので
身体が弱くなり、最後亡くなるに至って初めて
周囲の人は痛切に現実を突きつけられたという話だ。
彼女の生きた証をと、出版に至ったような流れだったと思う。
不謹慎な言い方をすれば
社会の中に第二の南条あやの登場を願う風潮が生まれ
そのように振る舞おうとしたメンヘラ―もいたかもしれない。
しかしそれはあったのだとしても
ごく微かなものだった。
南条あやの知名度やリスペクト自体、そこまでではなかったし
みな自分のことで必死でいっぱいいっぱいだった。
当時のボクは、独学の認知行動療法というレベルだったので
どのような考えをもってすれば
あるいは、どんな発想を教え与えれば
悲しい結末を迎えずに済むのかという程度だった。
今だったらどうか?
それは今読み返してみれば
そういう人がセッションを受けに来てくれるとすれば
同じように分け隔てなくセッションをする。
言葉の端々に、見ていくべき入り口のヒントがたくさんあるし
それは、メンヘラ―だからとか
健常者だからとかは、関係がない。
もちろん、特定の問題に対して
それなりのやりかたもあるけれど、それはそれ、これはこれだ。
もう一つ、読み返して
また自分の経験を踏まえ
あるいはセラピスト業界で言われていることを踏まえ思うとすれば
家族や恋人や親友といった
近しい存在であるほど
あるがまま見ていくという手法は困難であるという事だ。
「自傷はやっちゃダメ、しないでほしい」
それぐらいがやっとなのは、どうしようもない面もあるのだ。
当事者としては当然
こんなに近くにいる人にでさえ
受け止めて理解してもらえないという嘆きも
持つかもしれないけれども
それも、近しい人同士では抜け出せない
投影の反応でもあり
そういう場合やはり
第三者のプロにお願いすることが
解決への第一歩となる受け皿として大きい。
プロのセラピストでさえ
「家族や恋人にセッション?
ん~無理無理」っていう人がほとんどである。
あるがまま見ていけば
誰の責任を問うこともなく
大丈夫な自分というものを
どこかに自然に見いだせるものだ。
今のボクはようやく有難いことに
非二元をベースとしたカウンセリング&セラピーに出会って
そんな風に言えるようにさせて頂いている。