天台系、日蓮系の仏教では
原因別の病気の種類として
次の6つが挙げられます。
それぞれについて仏教的な見方と
当時の医学的な見方
現代の医学的な見方を比べてみます。
一には四大順ならざる故に病む
二には飲食節ならざる故に病む
三には座禅調わざる故に病む
四には鬼便りを得る
五には魔の所為
六には業の起るが故
四大順ならざる故に病む
四大順とは地水火風という自然界の要素です。
これが良くないことによって起こる病気です。
例えば熱中症なんてそうですよね。
こういった病気については当時の医者でも
「あ、暑さにやられたんですね
涼しいところに移動して体を冷やしましょうか」と
原因を知って対処することができます。
仏教としても
「なら、わざわざ仏教を持ち出さなくても大丈夫ですね」
ということになります。
現代ではより的確に
対策や予防まですることが出来ます。
飲食節ならざる故に病む
これは唯一、仏教の語の意味を知らなくても
普通に分かりますよね。
飲食が原因でなる病気です。
暴飲暴食をしたり
腐ったものを食べちゃったりですね。
これも当時の医者でも
「飲みすぎですよ、お酒はひかえて下さい
食べすぎですよ、脂っこいものはひかえて下さい」と
原因を知って対処することができます。
仏教としても
「なら、わざわざ仏教を持ち出さなくても大丈夫ですね」
ということになります。
現代ではより的確に
血液検査や血圧や体脂肪率など
いろんな数値から気を付けるべきカ所が分かります。
座禅調わざる故に病む
坐禅が調わないから病気になる?
いよいよ仏教の出番でしょうか?
坐禅が調うということは
心が平穏に淡々と仕事をし日々を過ごすということです。
坐禅が調わずに病になるということは
心配事ばかりで不安だったり
いつもイライラしてばかりいると
病に伏してしまうという場合です。
これも仏教を知らない医者でも
「不安が募ったんですね、イライラが募ったんですね
心配なくゆっくり過ごせるところで休養しましょう」と
原因を知って対処することができます。
もちろん、お寺で坐禅をするのでもいいのですが
坐禅は「人がする」ものであって
仏の側に動いてもらうというものではありません。
という意味において
まだ仏教の出ていくところではありません。
現代でも、googleでマインドフルネスが取り入れられたりするのは
まだまだ一部の特別な意識の高い人たちに留まっています。
かといって日本において
古くからある習い事には禅に近い精神修養があったりします。
今も昔も一進一退であるかもしれません。
鬼便りを得る
鬼が便りを得る。
そのまま読めば何のこっちゃという感じですが
それによってなる病気は流行り病、伝染病です。
今でこそ細菌やウイルスが原因であると
誰でも知っていることとなっていますが
どこからともなくやって来て
感染を拡大させていく様を
昔の中国や日本の文化では
鬼の仕業と考えて恐れたのです。
昔の絵巻に
病人が寝込んでいる家の屋根に鬼が描かれていたりします。
昔の宗教の役割の一つに
神社仏閣の配置なんかによって
鬼が入って疫病が流行らないように街を護るというのがありました。
それでも鬼が入ってきて病が流行るというのは
何らかの原因によって
護るはずの神様がいなくなったり力が弱まったりして
それが鬼に知れてしまうからだと考えたわけです。
神仏にしか防げない鬼が相手とあっては
一介の人間の医者に太刀打ちできるものではなく
これこそ宗教者が神仏の力を動かせて
鬼を退治してもらい、
もう入ってこないようにしなくてはならない、
ということになります。
医者にとって原因の分からない
手の施しようの解らない病だったからこそ
そういった鬼という考えができていったのかもしれません。
現代的に考えれば、正しい信仰によって
細菌やウイルスが入ってこないように街を護る
というのは、ちょっとナンセンスですね。
医学が大きく発展した分野です。
細菌やウイルスが原因であると分かり
様々な治療法や対策が分かりました。
今でも伝染病は国をあげて対策をする問題です。
インフルエンザになったら学校や会社を休まないといけないし
病気の種類によっては隔離とか予防接種とかいろいろあります。
魔の所為
鬼が外から入ってくるものであるのに対して
魔は内側を蝕んでいくものという節があります。
仏教説話の物語としては
「正しい仏教が広まったら自分たちの好きに出来ない」
と考えた第六天の魔王が
正しい仏教が広まるのを邪魔するために
その部下を遣わすというものです。
病を起こす魔は陰魔( 蘊魔 )という種類になります。
陰( 蘊 )とは五陰(ごおん)五蘊(ごうん)のことで
般若心経に『色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。』
とある色・ 受・想・行・識 です。
この、それぞれの 働きを内側から破壊する病気です。
上座部仏教では無我、大乗仏教では空が説かれますが
いずれにしてもこの五蘊の中には
「間違いなくこれが永遠に変わらない自分です」
と言えるものはないということになります。
逆に言えば、普通我々が
「これが私だ」と思っているものの要素が
色・受・想・行・識 です。
「色」この肉体、皮膚の内側が自分だと思っています。
「受」見える、聞こえる、感受するのを自分だと思っています。
「想」リンゴだ、鐘の音だ、思い浮かび認識するのを自分だと思っています。
「行」美味しそうだな食べたら怒られるかな?思考が自分だと思っています。
「識」美味しかった。記憶する経験者が自分だと思っています。
「私が人生を生きている」という場合
生きられている人生と
生きている私が別々に存在するかどうか?
「無いなんてそんなバカな、だって生きているし」
と言いたくなりますよね。
「生きている」は示せますよね。
有機的に活動している肉体である「色」
クリエイティブに活動している精神「受想行識」
陰魔( 蘊魔 )はこの活動を蝕むものです。
まず「色」である肉体ですが
当時の中国や日本には正確な解剖学さえありません。
1774年に解体新書が刊行されるまでは
腸の所はモヤモヤと描かれ肺が何房もあるような
五臓六腑図しかありませんでしたし
内臓を直接手術するような技術もありませんし
体の中で何が起こっているのかさえ分からなかったと思います。
仏教を邪魔しに来る魔に対して
仏教の信仰を奮い立たせて打ち勝つのだという考えになります。
「色」という肉体の構造というのは
普段は自分だと思っているものだと言っても
同じように絵に描いて同じように示せる
最も客観的に見て研究しやすいものです。
なので、医学的に最も発展しています。
まさに体を蝕んでいくガンのような病気も
随分と治る病気になってきました。
「受」の病気ですがおそらく鬱がここに入るでしょう。
健康な時には楽しかったことに興味がわかなくなり
食べ物の味も分からなくなってしまうこともあります。
なぜ感受が減退しているのか?
様々な精神病の中でも、そこだけなら研究しやすいところです。
等倍の絵でこそ描けないものの
脳の神経細胞の拡大、物質の受け渡しのイメージを描くことができ
これも客観視して研究が進んでいます。
五蘊を分けて客観視すれば
感受の減退は心の側が起因である場合も
肉体の側が起因である場合も両方ありそうな位置にあります。
精神医学では五蘊のような分け方をして見ていませんから
他の精神病も同じように投薬で治るはずだというテーブルで考えたりして
そこに突破できないでいる困難があるようにも見えます。
「想」「行」といったあたりは
サイコセラピーの役割が大きくなってきます。
「想」の病気に統合失調など
「行」の病気に強迫性障害などが考えられると思います。
現代の医学や心理学でもまだまだ仕組みが分かっていなくて
上手く治しにくい病気も多いところです。
サイコセラピーとして認知の歪みを修正していく
認知行動療法なんかが普及しています。
マトリックス・リインプリンティングはそれよりも新しいセラピーで
修正していく努力継続型でなく
自然に認知のシフトが起こるものとなっています。
現代ではナンセンスな宗教性の押し付けは
ここではこじらせる可能性もあります。
しかし、仏教に役に立つものが無いこともないです。
この五蘊のような見方や瞑想のリラックス効果などは
自発的に自然に行える範囲で、役に立つ可能性があります。
「識」の病気としてはPTSDなどが考えられます。
最も客観視し研究することが難しい領域です。
記憶は曖昧で、簡単に書き変わるという研究もありますが
「記憶を簡単に書き換えちゃダメでしょ」という倫理が働きます。
五蘊を自分だと思っている小我にとって
記憶経験というのは自分が確かであるための
最後の砦であり、アイデンティティが揺らぐことを恐れます。
トラウマは一生消えないという立場の研究者も未だ多くいます。
しかしこの領域も、他の五蘊と同じように
そこで起こっている仕組みさえ研究して分かれば
適切な対応ができます。
EFTを使ったセラピーでPTSDに対して
高い効果が得られているという研究もされています。
業の起るが故
魔の病気の原因が自分ではないのに対して
自分が過去世にした悪い行いを原因とするのが業による病気です。
先天的な病気などはここに入ります。
現代では遺伝子的な問題だとか
妊娠している時の状態とか
そういう原因は分かるものも多いですが
いざ、そう生まれてしまったら
治せるようになったものも多くありますが
どうしようもないものも多くあります。
昔の医者は遺伝子なんて知りませんから
そんな体で生まれてきた仕組みさえ説明できません。
さて法華経の仏教において
最も重い悪い業を作るのは
最高の教えである法華経を誹謗することになります。
逆に法華経を信じて実践すれば
作ってしまった業は出ざるを得ないけれども
本当はすごく重い業も軽く受けることが出来る。
それを乗り越えていけば現世安穏後生善処になっていく。
というものです。
またぞろ、あなたの持っている業はこれだけですよ
とは示せない、鬼や魔と同じような次元の話ではありますが
「難でも業でも何でも来い
必ず乗り越えて幸せになって見せる」
という気概にあふれた信仰団体では
障害にめげず前向きに生きていったりします。
手の施しようのない問題がある場合
あるいはそこで選ぶ生き方としては
自由であるとも言えます。