新しいステージ瞑想の救済セラピー

新しい「人生まるごと救済 瞑想開発/調整セッション」について。

「癒し」の次のステップ、「救済」の起こし方に至ったのだ。

私のやり方では、ここには「瞑想」そして神仏に願い祈る時の「祈り」というものが関わっている。

※セラピーの上で、非宗教のシンボルとしての神様等を登場させる。
※この記事は、やり方の全容を説明しているものではない。

「願い」とは神仏への表層意識で自覚している願い事、「祈り」とは神仏への無意識下の反応による態度、と便宜上しておく。

目を向けてみるのは、願い祈る時の、例えば「重さ」である。
同じことを願い祈るにしても、願った本人すら忘れているようなものから、どうかこれだけは命に代えてもお願いしますというものもある。

普通は、どう願い祈れば叶いやすいのかが気になるところだろう。
しかし、癒し救済するという観点から言えば、軽いにしろ重いにしろ、「祈り」という無意識下の反応をそのまま全て、開かれたエネルギーの瞑想につなげていくのが良いのだ。

例えば「合格祈願」だとか、叶えたいことがあってお願いし祈る。それはそれでいい。
だが、その願いが叶うことがいつでも最高の結果で、それが救済だろうか?

あるいは祈り抜いて出た結果なら表面的に願いが叶っていなくても、それが実は最良で救済になっているのだろうか?

救済という視点はそうじゃない。外に現れているものじゃない、内側の救われているかどうかに目を向けてみる。

まぁ、そんなことを言われても気持ち悪いと思うが、その気持ち悪さこそが、「人生を思うようにできなきゃいけない」という呪縛の苦しみでもある。

人は祈る時、具体的なお願いがあったりするけれど、それは内側に、どんな苦しみを抱えているから、そのようなお願いをするのか?
その苦しみから抜け出し、気づきの視点に立ち、明晰でいられることが救済になる。

祈りの中の苦しみを解放し、瞑想を着地点とすることで、すごく救われる。
同じ苦しみにはもう振り回されない。

初期仏教に四諦というものがある。
ざっくりと「癒し」「救済」と対応させてみる。

【苦諦】祈りや願いに余分なりきみがあり、それが握りしめている苦であることに気づく
【集諦】その苦は何の集合であるのか好奇心を向けて中身を知る
【滅諦】閉ざされていた感情を味わい解き放ち、その前からある純粋な本心を知る
【道諦】気づきを保っていき、明晰に物事を見ていく

私の感覚の私の言葉でしかないが、相談テーマに対して滅諦までを行うのが「癒し」、祈りから道諦まで導くのが「救済」といった感じだ。

苦諦・集諦・滅諦・道諦は仏教用語であるが、無我を含む三法印と共に、日本仏教では必ずしも採用されてはいない。

四諦を採用するなら、癒された純粋な本心は握りしめているりきみがなく、救済された明晰さは組織に従い群れる必要がない。
スッタニパータに「林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。」等々とある。
「犀の角のようにただ独り歩め」より

さて、極端な例を挙げるが、一歩引いて冷静に受け止めてほしい。

四諦が採用されていないということは、叶えたければ一生懸命に祈りなさい、この教えだけが正しいのだから従いなさい、という方向になる場合がある。
例えば日蓮の教えとして伝わる言葉に「湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」等々とある。

これは日蓮に限らないし仏教に限らないし、もしかしたら宗教にさえ限らない。
一生懸命に信じ祈り行動すれば良い結果が得られると教え、裏を返せば、敵対すれば地獄に落ちると教える。

そういった宗教や思想の全てを否定するわけではないが、強迫観念やバイアスの葛藤で苦しんでいる人がいるとするならば、一歩引いて、一呼吸おいて、自分を責めず、休むことを許して、みてほしい。

人間以上の人間はいない。
一つ祈るだけでもぐったりするようなエネルギーを使いながら、休む間もなく与えられる組織の活動。
敵対勢力を野放しにしておくと恐ろしい世界になるので、戦って勝たなければいけない。

そうなれば当然しんどく、思考も心身も健全ではない。

罪悪恐怖・信仰強迫といった感じだろうか。強迫観念に支配され、正常な判断ができなくなり、行動に駆り立てられる。

強迫性障害の不潔恐怖・洗浄強迫のモデルと比較してみよう。

【きっかけ】ドアノブに触った
   ↓
【強迫観念】ばい菌がついているんじゃないか
   ↓
┌→【不安・不快感】きれいじゃない
│  ↓
│ 【強迫行為】手洗いをする
│  ↓
│ 【一時的に不安が下がる】行為による一時的落ち着き
│  ↓
└─【問題が解決していないからまた不安に】菌に負けて病気になる自分像

【きっかけ】思い通りにいかない自分、認めてくれない社会
   ↓
【強迫観念】罪があるとさらに不幸になる、敵対者がはびこると恐ろしい社会になる
   ↓
┌→【不安・不快感】完全な自分じゃない、完全な社会じゃない
│  ↓
│ 【強迫行為】正しい祈りをする、正しい教団の活動をし敵対者と戦う
│  ↓
│ 【一時的に不安が下がる】行為による一時的落ち着き
│  ↓
└─【問題が解決していないからまた不安に】運命に翻弄される自分像、世界を変える使命感

不潔恐怖・洗浄強迫のモデルで言うと「菌に負けて病気になる自分像」が居場所を得て変化し現実に悪影響を及ぼさなくなることを私は「癒し」という。
少々ばい菌がついていても「大丈夫な私」になるので症状は消えるだろう。

ピンポイントで解決したいテーマがある時には、個別のテーマをしっかりと掘り下げて癒すのが有効だ。

罪悪恐怖・信仰強迫の方だが「祈り」とは、例えば「合格祈願」では、受かるか落ちるかで人生が大きく変わると信じている。
「祈り」とは、あたかも人生の全てが、そこにかかることがあるかのようにさえ感じるものである。

「癒し」だけで人生の全てを癒しきれるのかどうか?
それは果てなく終わりがないかもしれない。

なぜ終わらないのか。
世界から分離し続けているからである。

救済の方法では、この分離が無い瞑想習慣によって苦しみのループから抜け救われる。

個別の悩みや症状を根掘り葉掘り掘り下げることなく、人生丸ごと救われたい時には、救済の方法が有効だ。

人生まるごと救済 瞑想開発/調整セッション